治療編 乳がん初期で発見、からの顛末記
50才の誕生日を迎えると同時に乳がんが見つかってから丸3年、現在、治療継続中。おかげさまで比較的、初期だったこともあり、深刻な状況にならずに済んでいる。色々な偶然やラッキーが重なったのだが、私の体験をお伝えすることで、少しでもどなたかの参考になればと思い、これまでの経緯を書いてみることにした。
これまで投稿したシリーズ、
「手術編 乳がん初期で発見、からの顛末記」
「検査編 乳がん初期で発見、からの顛末記」
「告知編 乳がん初期で発見、からの顛末記」
「予兆編 乳がん初期で発見、からの顛末記」
の記事を貼り付けるので、よかったら、そちらから読んでみてください。
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手術から1ヵ月後、再び大学病院へ
無事、手術の2日後には退院することができ、退院した翌日からは普通に通勤電車に乗って仕事にも行くことができた。おかげさまで予後はとても順調だった。
1ヵ月後に様子を見せに来てくださいと言われていたので、SB大学病院を訪れた。
やはり、その日のブレストセンターの待合室はぎっしりと人で溢れていた。私もようやく空いている席を見つけて座ったが、全然、私の番は回ってこない。2時間近く経った頃に隣のご婦人が話しかけてきてくれた。
「主治医の先生はどなた?」私が「G先生です。」と答えると「私もG先生なのよ。もうずっと前から。」と。そして「私は青森に住んでいて、G先生に診てもらうために、今朝早く、飛行機で来たの。」とのこと。そして「G先生は一人一人とても丁寧に診てくださるし、私みたいに遠くからわざわざ来る方も大勢いるから、混んでるし時間もかかるのよね。いつもこんな感じよ。」とニコニコと話してくださった。この混み具合はそういうことなのかと合点がいった。
乳がんになって不安や心配はたくさんあるし、どうして自分がなっちゃったんだろうと落ち込んだりもするけれど、この待合室には私と同じ病気の方々がたくさんおられて、一生懸命、闘っていらっしゃるんだなと思うと、勝手に同志のような気がして勇気をもらえるのだった。
3時間がとうに過ぎた頃、ようやく名前が呼ばれて診察室に入るとG先生がいらした。
「手術はうまくいきました。リンパ節への転移も見られませんでしたよ。」
そして「傷の具合を見せてください。」と言われて診てもらった。傷跡は乳輪に沿って3,4cmくらいの小さなもの。まだ赤味があるが、赤味が引けば遠目にはほとんどわからないだろう。立ち会った看護師さんも、「とてもきれいな傷跡ですねえ。」と感心していた。先生は、「順調ですね。これなら、次の『放射線治療』が始められますね。」とのことだった。
手術から1ヵ月経って来てくださいと言われたが、それは放射線治療を始めるために、傷の回復を待つ時間だったのだ。
予後は良好、次の治療へ
乳がんの治療は手術で腫瘍を切除、取り除くだけでは終わらない。それから長い治療が続くのだということは、今回初めてちゃんと知った。
G先生の説明によると、私の場合の今後の治療方針は次のようになった。
あくまでも素人の私が説明を受けて理解できた範囲での内容であること、必ずしも誰にでも当てはまるということではないことをご了承ください。
【放射線治療】
手術で腫瘍(がん)を切除して取り出したが、万が一、切除した周囲にガンを取り残した可能性がないとは言い切れないという考えのもとに、安全措置として行う。なので、放射線を患部を中心に当てて、残っているかもしれないガンを死滅させる。
これはほぼ全員が行うので、当然、私も受ける。
【抗がん剤治療】
もしも乳がんが乳房に留まったままでなくて染み出して、リンパ節への転移があった場合には、ひょっとしたら乳がんが全身に回っていて他の臓器に転移しているかもしれないと考える。抗がん剤を使って、全身に潜んでいるかもしれないガンを根絶させる。
ただし抗がん剤は同時にガンではない正常な細胞にも影響を与えてしまうので、様々な副作用の症状を起こす可能性があり、体へのダメージが大きい。
私の場合は、手術の時に、リンパ節への転移が見られなかったので、今回、抗がん剤は幸いなことに行わなくてよいでしょうということになった。
【ホルモン剤治療】
一度、乳がんになると、怖いのは、再発と転移。残念ながら、一度、乳がんになると、健康な人よりも再発の可能性が高くなるそうだ。なので乳房での再発や他の臓器への転移を予防するのに、ホルモン剤というのを服用する。最低でも、5年間、毎日飲み続けなくてはならない。
乳がんは女性ホルモンが大きく影響すると言われていて、ホルモン剤はその女性ホルモンを低下させることでガンを抑制するというものだ。
G先生曰く、私のガンの場合はホルモン剤がよく効くタイプとのこと。 jbcs.gr.jp
私の場合は、まず、放射線療法をして、それが終わってからホルモン剤療法をするという順番になった。
放射線療法の毎日
ブレストセンター(乳せん専門外来)から、同じSB大学病院内の「放射線科」に移動してこれからの治療の説明、予約を受けた。
放射線治療は、それ自体は5分くらいで終わるものだが、やっかいなのは、30日間、毎日、病院に通わなくてはならないことだ。放射線なので、極微量といっても、やはり被曝することになるので、一度にたくさんの量は照射することはできない。しかし、照射しなくてはならない放射線の総量は決まっているから、そのためには30回に分けて行わなくてはならないから、30日間、かかるということなのだ。
(へぇ、なってみないとわからないことがたくさんあるんだね。)
私はフルタイムで仕事をしているので、30日間、毎日、通うのは有給休暇を使うとしてもなかなか大変だ。
すると放射線科の先生が、「最近、1回の放射線量を増やして、約半分の16回=16日間で終わる方法も行われるようになりました。日本ではまだ、30回で行うのが主流でそれに比べると、こちらは実績が少ないのですが、乳がん治療では一番進んでいるといわれるアメリカでは、かなり増えてきていて問題ないと報告されています。どちらを選んでも構いませんよ。」と言われた。
16回で済むのだったら、それに越したことはない。後は私が決めるだけ。仕事をしながら毎日、病院に通う、16日間だったら、やり遂げられそうな気がする...というわけで、16回の方を選択した。
そして、放射線治療に通う日々が始まった。
毎朝、いつもより30分早起きして、仕事の前に朝いちばんで予約を取って放射線科に行く。検査着に着替えて名前が呼ばれたら、放射線室に入って上半身着衣をとって台に寝る。
いちばん最初はどこに当てるのか、放射線技師の人が慎重に調べて、左乳房のその部分にマジックで印をつけた。「これは終わるまで使うので、お風呂で洗い流さないでくださいね。」とのこと。
そして技師の人たちは別室に行き、暗くなって、放射線照射スタート。毎日、毎朝、この繰り返し。
3日間くらい経ったところで、体の変化があらわれてきた。放射線を当てたあたりが、赤く腫れて、ヒリヒリしてきたのだ。放射線照射というのは、わかりやすく言えば、その部分だけ海で強めに日焼けしたような感じ。絵としては日焼けサロンみたいだ。
日焼けもやけどの一種だから、それがちょっと負担ではあったが、なんとか無事、16日間、通い続けることができた。
やったー、達成感でいっぱい♬
何かロールプレイングゲームみたいに、一つ一つクリアしていく。
その後、放射線を当てた部分は、しばらくしたら赤味や腫れは引いてラクになった。そうしたらその部分が黒ずんできた。放射線科の先生は「何年かしたら、この黒ずみはだんだん薄くなってくると思います。それから、どうしても乾燥しますので、保湿をしてくださいね。」とのことで保湿薬も処方してもらった。今でも時々、乾燥してかゆくなることはある。
また、「放射線を当てた時になるべく他の臓器に当たらないように角度には細心の注意を払って気をつけるのですが、どうしても避けられない場所もある。特に肺はそうです。経過を見せに来てください。」とのことで、その後も何回か放射線科に足を運んだ。
次は、長いホルモン剤治療へ
こうして、無事、16日間の放射線治療を終了してから1ヵ月後に、また、ホームグラウンドであるブレストセンター(乳せん専門外来)へと舞い戻った。手術をしたのは年明けすぐだったが、もうその頃には季節はゴールデンウィークを過ぎていた。
次はホルモン剤治療だ。ホルモン剤治療は、ガンの再発と転移の予防のためであるが、5年間、毎日、服用しなくてはならない。
主治医のG先生が、「クラウディアさんの乳がんはホルモン剤がよく効くタイプのガンですよ。」と言ってくださったのが励ましとなった。
現在は元気に治療継続中
こうして、乳がんが見つかってから、手術 ⇒ 放射線治療 ⇒ ホルモン剤治療を経て、丸3年経った現在もホルモン剤の治療継続中である。3ヵ月に1回はSB大学病院から紹介してもらったクリニックで経過を診てもらっているが、おかげさまで普段は乳がんなのを忘れているくらい(過去形にはまだできない)元気に生活できている。そして、手術の傷跡も言わなければわからないくらい小さく、旅行先で友人と温泉に入る時も特に気にする必要がない、本当にありがたいことに。
乳がん発見から私の一連の体験をシリーズに分けて書いた。ニュースや番組でガンのことを見聞きしているが、自分が当事者になって経験するまで、実は全然わかっていなかったことがたくさんあった。乳がん治療はここ何年かで目覚ましく進化していて、早期で治療できれば、普通に元気に生活できるようになる可能性が高いそうだ。私の体験を語ることで少しでもどなたかの参考になり、不安を取り除いたり、検査に行くきっかけになったりする一助になったらさいわいである。
手術編 乳がん初期で発見、からの顛末記
50才の誕生日を迎えると同時に乳がんが見つかってから丸3年、現在、治療継続中。おかげさまで比較的、初期だったこともあり、深刻な状況にならずに済んでいる。色々な偶然やラッキーが重なったのだが、私の体験をお伝えすることで、少しでもどなたかの参考になればと思い、これまでの経緯を書いてみることにした。
これまで投稿したシリーズ、
「検査編 乳がん初期で発見、からの顛末記」
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「予兆編 乳がん初期で発見、からの顛末記」
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大学病院へと繋がる偶然とラッキーの重なり
SB大学病院ではその後、検査、手術、治療とお世話になることになる。その話をする前に、このSB大学病院に行くことになった色々な偶然とラッキーについてお話しておきたい。
クリニックで乳がんとわかり、紹介状を書いてもらったので、何も考えずにその大学病院に行くつもりだった。でも、一人になったら、急に不安がじわじわとこみあげてきた。「この病院って本当に信用してもよいんだろうか」「大学病院ってあんまり良い印象がないんだよな」「かと言って、余多ある病院から、良い病院を調べるのもどうしたらよいものか」 など考えているうちに、ふと、思い出した。
そう言えば、友人のSMさんがLK大学病院の婦人科系で勤めてるって言ってたよな...
彼女は高校の同級生で親しい友人だ。卒業以来、お互い、仕事や生活が忙しくなかなか会う機会がなかったが、数年前から時々、会うようになっていた。お互いの近況を話したり聞いたりするのだが、以前の私にとって乳がんは自分事ではなかったので、彼女が婦人科系の部門の秘書として勤務しているぐらいにしか認識できていなかったのだ。
乳がんそのものについても、漠然と婦人科系の病院で診てもらうものと思っていたが、実は婦人科系と切り離して、乳がんや乳腺の病気だけを専門にしているクリニックや外来があるということも、今回、自分が当事者になって初めて知ったことだ。乳がんの検査に行くときには、ぜひ、そういった乳腺を専門としているクリニックや病院(ブレストセンターとも呼ばれる)に行っていただきたい。
話をもとに戻すと...その友人SMさんに連絡を取った。そして、乳がんと診断を受けたこと、SB大学病院を紹介されたが、その病院は信用してもよいのかどうか、などを相談した。
すると、SMさんは、「私が勤めているのはLK大学病院のブレストセンター(乳せん専門外来)だよ。そこのG先生が初代センター長で、長年、私のボスだったの。その先生が少し前に、クラウディアの紹介されたSB大学病院に移って、ブレストセンターを立ち上げたんだよ。」と言った。そして、「だから、安心してお任せして大丈夫だよ。」と言ってくれた。
大学病院が山ほどある中で、こんな偶然ってあるだろうかと、本当に驚いた。
そして、彼女はこうも言ってくれた。「これは私が役に立てる場面だと思う。一緒に併走するからね。」
なんて心強いことだろう。その後、SMさんは本当に併走してくれて、ずっと支えてくれることになる。こうして私は、セカンドオピニオンなど考えることなく、すんなりとSB大学病院へと進むこととなった。
検査の結果、ステージ Ⅰ
その年も押し迫った12月下旬に、再びSB大学病院に「針生検」の検査結果を聞きに訪れた。その時に、かの友人SMさんが、仕事を休んで付き添ってくれた。
「クラウディアは誰か、付き添ってくれる人はいるの?」と聞かれて「特にいないけど、一人でも大丈夫だし、そのつもりもないよ。」と言った。クラウディアはおひとりさまだから、何をするにも一人は慣れっこなのだ。
でも彼女は「じゃあ、よかったら私が行こうか。」と申し出てくれた。
仕事を休ませるなんて申し訳なさ過ぎるからと断ったが、「元ボスのG先生が前から一度、遊びに来なさいと言ってくれていたし、お会いしたいし、良い機会だから。」と取り合わない。なので、ご厚意に甘えて付き添ってもらうことにした。
SMさんは事前にG先生に個人的に連絡を取ってくれたらしく、「G先生が『クラウディアの診察の時に顔を出せるようにするよ』と言ってくれた。」らしい。当日は、いつにも増して待合室は混んでいた。2時間以上過ぎて、ようやく名前を呼ばれて診察室に入ると、前から診てもらっていた女性のI先生ではなく、インターネットの写真で見ていたG先生が座っていた。私は初対面だったが、付き添って中に入ってくれた友人SMさんを見て、G先生は「やあ。」と親しそうな表情。
そして、検査結果の説明が始まった。
「クラウディアさんの乳がんは、『ステージⅠ』、『浸潤』、『どちらかというと大人しいタイプの乳がん』ですね。」
専門的なことはよくわからなかったが、乳がん初期の段階で、それほど深刻な状況ではないとのことだった。どうやら乳がんの種類にもいろいろあるらしく、「おとなしいタイプ」と「攻撃的なタイプ」とかあるらしい。
「まず、手術は乳房温存で大丈夫でしょう。手術の時に、リンパ節に転移しているかどうかも併せて調べます。その後の治療についてはそれから決めましょう。」とのことだった。
その場で1ヵ月後の手術日を予約して診察室を出た。
それほど深刻な状況ではないことは理解できて、少し安心した。それと、乳房を全部、取らなくてはならないのかなと思っていて、そのことは当事者になってみると、女性にとって非情に大きな問題なのだと実感した。だがそれは、幸いなことにどうやら患部だけを部分切除、摘出するので済むらしいとわかって、ちょっと安心した。
診察室を出てから、SMさんと夕ごはんを食べながら、今日のことを色々話した。そこで、SMさんが教えてくれて初めてわかったことが色々あった。SMさん曰く、
「診察の時に私を見て、頷いてたよ。きっと大丈夫!」
そして、
「今日、G先生が直接、診てくれるとは思ってなかったけど、ということは、G先生がクラウディアの主治医になってくれた、ということだよ。」さらに、
「手術の日を決めたということは、G先生が手術の執刀をしてくださる、ということでもあるね。」と。
そうなんだ!?そこで初めて状況がつかめたクラウディアだった。
実は、後に知ってくると、G先生は乳がんの外科医として名医と言われている方で、全国から何時間もかけて、時には海外からはるばるG先生に診てもらいたいと訪れる患者さんもおられる。それを考えると、私は偶然やラッキーが重なって図らずもG先生に診てもらう運びになり、恵まれ過ぎていると思わざるを得ない。
友人のSMさん、そして、クリニックからここまで繋いでくれたI先生にも感謝に絶えない。そして、これもまた、私がSMさんに連絡を取る行為によって、偶然とラッキーを引き寄せたことになる。
手術前の大きな試練
手術は年明けすぐにすることになっているが、その前に大きな課題があった。それは、遠く離れて暮らしている両親に話すということだった。
私の両親はもう年老いているし、親孝行はなかなかできないが、せめて心配や迷惑をかけたくないと思っていた。それなのに、娘が乳がんになったと知らせなくてはならないのは、なんともやるせない。できることなら、知らせないで手術してしまおうかとも思った。でも、もし、手術で万が一の事があったり、病状が悪化したりした場合、知らせなかった事でより悲しませることになるかもしれない。だから、知らせないわけにはいかないよな、などと考えあぐねていた。
もうすぐ年末に実家に帰省するから、その時に話そうと思っていたが、友人SMさんのアドバイスもあり、事前に電話で伝えることにした。でも、なかなか電話する気にならない。ようやく帰省する当日の出かける前に電話して、「これから帰るね。」と言って、「実は、乳がんになった。深刻な状況ではないから。」と伝えた。電話に出た母は、少し沈黙してから、「とにかく帰ってきなさい。それから...。」とだけ言って電話を切った。
実家に帰ってから、何事もなく年末年始を過ごし、その話は特に聞かれなかったので、私も話をしなかった。東京に戻る日の前夜に、父が「お父さんもお母さんも年を取っているから何もしてあげられないけど大丈夫か。親よりは長生きしてほしい。」とだけ言った。自分がガンになった事より、親にそんな思いをさせるのがつらくて、同時に、大きな試練を乗り越えて、正直ホッとした。
いよいよ手術当日
年が明けてすぐ、いよいよ手術当日になった。当日は妹が付き添ってくれた。これも私が一人で大丈夫と言ったのだが、妹の意思は固く、ご厚意に甘えることにした。
手術着に着替えて、看護師さんに付き添ってもらって手術室の近くまで来た。「妹さんはここまで。後は一人で歩いて行ってくださいね。」と言われたので、そこから手術室へ一人で歩いて向かった。そうしたら、なんと、途中で術衣を着たG先生が迎えに来てくれていた。「やあ、来た来た。こっちこっち。」と案内してもらい、手術室に入った。
そこからはドラマのまんま。手術台に言われるがまま寝そべって、先生が「数を数えてくださいね。」と言うので、1,2,3...と数えているうちに麻酔が効いて気を失って...知らない間に手術は終わり、目が覚めて気づいた時には、入院のため病室に運ばれているところだった。「無事、終わりましたからねー。」と声が聞こえた。
術後、当日から歩いてトイレにも行った。手術の前日、当日も含めて、入院はなんと4日で済み、すぐに退院することができた。それもこれも手術の傷がとても小さくて済んだから。術後の様子を見に来てくれた回診の先生が、「傷がとてもきれいですね。」と褒められた(私がやったのじゃないけど)。
そして、手術の時に患部を部分切除するのと同時に、リンパ節への転移がないかどうか調べる、「センチネルリンパ節生検」も行った。手術の最中に取り出した組織を病理検査をするのだが、その結果、リンパ節への転移は見られなかったとのことだった。もし、リンパ節に転移が見られたら、手術でリンパの切除もしなくてはならないので、そうだったら、傷がもっと大きくて術後の回復ももっと大変だっただろう。
先生からは、「術後の経過を見せてもらうのと今後の治療をどうするのか、手術の結果を見て決めますので、1ヵ月後に来てください。」と言われた。手術はうまく行って、術後の経過はとても良好ではあったけど、その後、どんな治療が待っているんだろう、先が見えない一抹の不安はあるのだった…つづく。
検査編 乳がん初期で発見、からの顛末記
50才の誕生日を迎えると同時に乳がんが見つかってから丸3年、現在、治療継続中。おかげさまで比較的、初期だったこともあり、深刻な状況にならずに済んでいる。色々な偶然やラッキーが重なったのだが、私の体験をお伝えすることで、少しでもどなたかの参考になればと思い、これまでの経緯を書いてみることにした。
前回、前々回と投稿したシリーズ、
「告知編 乳がん初期で発見、からの顛末記」
「予兆編 乳がん初期で発見、からの顛末記」
の記事を貼り付けるので、よかったら、そちらから読んでみてください。
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大学病院で本格的な検査
紹介元のクリニックでI先生に言われたのは、「クリニックでできる検査はどうしても限られているから、これ以上のことはわかりません。よかったら大学病院を紹介しますので、そちらでもっと詳しい検査を受けてさらによく調べましょう。」ということ。言われるがまま、その先生も勤務されているSB大学病院に紹介状を書いてもらい、後日、予約を入れた。
駅を降り立つと、商店街を突き抜けたところに巨大なSB大学病院の建物がそびえ立っている。病院というよりオフィスビルのようであまりに立派なので、ちょっと気後れしつつエスカレーターで上がり、「ブレストセンター」という名称の乳せん専門外来に向かった。入口を入ると全体的に内装や待合室のソファが淡いピンク色で、女性の患者さんを意識したやわらかい雰囲気に私も少し心なごんだ。
大学病院だけあって、待合室はたくさんの人で座る隙間も見つけるのが大変なくらい混んでいる。空いている場所を見つけて、しばらく座って待っている。
2時間くらい経った頃だろうか。名前が呼ばれて中に入ると、クリニックで診てくださったI先生が座っていた。I先生は穏やかな笑顔で「それでは、早速、検査します。今回の検査は、『針生検』というものです。ちょっと痛いかもしれませんが、しっかり調べましょう。着替えて少し待っててくださいね。」と言った。
(「痛いの...?」)と心の中で思ったが、クリニックで「細胞診」を経験しているので、音の響きは似ているから、大丈夫そうだと勝手に思っていた。
針生検は痛かった💦
検査着に着替えて、また、しばらく待っていると、名前が呼ばれて処置室に入った。2人の看護師さんとI先生ではない別の先生が、私が寝ている診察台の周りでセッティングしている。まず、局所麻酔をしてから、「それでは『針生検』していきますね。」と検査が始まった。
私は寝た体勢だから、直接、見ることはできないので、先生や看護師さんがこまめに声をかけてくれる。「これから針を入れていきますね。」「大丈夫ですか。」など。左の乳房に針を刺すのがわかった。モニターを見ながら、先生が患部に針を進めていく。
そして、中でグリグリと動かすのだが、いやー、これが痛かった💦
たぶん、組織を採取するためだとは思うが、麻酔をしていてもかなり痛い。思わず、「イッターーイ!」と言って、のけぞってしまった。看護師さんは「ゴメンなさいね。痛いですよね。」と言って、私の背中を抑えながら「もう少しで終わりますから、がんばってくださいね。」と励ましてくれた。
右胸の良性の腫瘍のおかげで左胸の乳がんが見つかった
なんとか針生検を終えて、再び、診察室へ。I先生が待っていて、「検査の結果は後日、聞きに来てください。その結果で治療の方針を考えていきましょう。」とのことだった。
その時に、私はI先生にこの間から訊いてみたかったことを質問した。「右側に腫瘍があったけれど良性だとわかった。でも、私が気になっているのは左側の乳房の違和感と痛みだったのですが、マンモグラフィでも超音波でも特に問題ないとずっと言われていました。それなのに先生は、調べてみましょう、と調べてくれて、そのおかげで乳がんが見つかりました。あの時どうして調べようと思ったのですか。」と。
I先生は「私は人よりちょっと用心深いんですよ。」とおっしゃって、「結果的には、右胸の良性の腫瘍が、クラウディアさんの左側の乳がんが見つかるきっかけになっている。右胸の腫瘍が教えてくれたんですね。」と。
これが私の偶然とラッキーの一つだった。
確かに右胸の腫瘍が良性とはいえ、経過観察しましょうと言われて、半年後にクリニックに行ったら、I先生に出会えて、左胸も調べてもらい、そしたら乳がんが見つかったのだ。右胸に腫瘍がなければ、また、1年後に健康診断でマンモグラフィとか超音波をやっていて、そうしたら見つかっていなかったかもしれないし、もっと進行していたかもしれない、と思うとちょっと怖い。
それと、もう一つ、I先生に質問した。「ガンには痛みはないと言われたのですが、ずっと左胸の患部が痛かったのですがどういうことなんでしょうか。」と。
I先生は「ガンそのものには痛みはありません。ですが、ガンのしこりが乳腺の中で引っかかって痛みが生じる、ということはあるかもしれません」と。
なるほど、そうだとすると、私がずっと気になっていて、「左胸に違和感があって痛い」と何度も訴えてきたことも、功を奏したことになる。何でもないと言われても、自分自身で違和感があるんだったら、それを訴え続けるのは大事だと私は声を大にして言いたい。なんでもないのだったら、それに越したことはないのだ。でも、自分の体から発せられたサインを感じ取れるのは自分だけだから。
偶然やラッキーをただ待つのでなく、自分の力で引き寄せるって、こういうことだと思った...つづく。
告知編 乳がん初期で発見、からの顛末記
50才の誕生日を迎えると同時に乳がんが見つかってから丸3年、現在、治療継続中。おかげさまで比較的、初期だったこともあり、深刻な状況にならずに済んでいる。色々な偶然やラッキーが重なったのだが、私の体験をお伝えすることで、少しでもどなたかの参考になればと思い、これまでの経緯を書いてみることにした。
前回、投稿した「予兆編 乳がん初期で発見、からの顛末記」の記事を貼り付けるので、よかったら、そちらから読んでみてください。
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半年後、経過観察のつもりでクリニックへ行くと…
会社で行う年一回の健康診断でマンモグラフィをしたところ、右側の乳房が「腫瘍の疑いあり」ということで「要精密検査」と言われた。それで近所の乳腺外科クリニックで精密検査を受けたのだが、乳房に直接、針を刺して組織を採って調べる「細胞診」というのを生まれて初めてやった。
後日、わかった結果は、右側の腫瘍は「良性」で癌ではない、ということで一安心。経過観察でよいでしょう、半年後にまた来てくださいと言われた。
そして半年後、ちゃんと先生の言いつけを守り、経過観察のつもりでその同じクリニックに行った。そしたら、前回とは違う女性のI先生が診てくださった。前回「マンモグラフィ」だったので、今回は「超音波(エコー)」で両胸を診てもらう。
そして、先生に触診もしてもらったところ、「特に問題なさそうですね。」とのことだった。それで安心はしたのだが、頭の隅でずっと引っかかっていたことを先生に伝えた。
「半年前にその時の先生にも言ったのですが、右の乳房に腫瘍があるとのことですが、実は私が気になっているのは左側です。左側の乳房の上に違和感があり、触るとブヨブヨと膨らんでいて、時々痛みがあります。その時の先生は乳がんは痛みはない、乳腺症など他の女性特有の症状ということはあり得ますがそれは深刻ではないので、このまま様子を見るということでよいでしょう。と言われましたが気になっています。」と。
すると、I先生はちょっと何か考えるような間をおいてから、「そうですか。それでは左側も念のために検査しましょう。」と言って、直接、針を刺して組織を採って調べる「細胞診」をしてもらった。結果は2週間後に聞きにきてくださいと言われたが、その日は都合がわからなかったので、後で電話で予約を入れます、と言って終わった。
もうすぐ記念すべき50才の誕生日を迎えるという11月初旬だった。
イヤな予感...クリニックからわざわざ電話がかかってきた
結果を聞きに、電話で予約を入れなければいけないのだが、忙しさにかまけて、電話しないまま、日が過ぎてしまっていた。たぶん結果を聞きに行かなくても大丈夫だろうという油断があったのかもしれない。
そうしたら、2週間過ぎた頃に、クリニックの方から、わざわざ電話がかかってきた。携帯の着信を見ると「〇〇〇〇クリニック」と登録名が出たので、あちらから電話が来るなんて、どうしたことだろう?とビックリしながら電話に出た。すると受付の女性から、「予約の電話をいただくことになっていましたが、なかったのでお電話しました。」とのこと。私が「電話しなくてはと思っていましたが、ついしそびれていました。」というと、「先生が、結果を聞きにいらしてください、と仰っていますので。できるだけ近い日でご都合のつく日をお取りします」とのことだった。
このクリニックはとても人気で混んでいるから、近い日程で予約を入れるのは難しい。それなのに、わざわざそんな電話をくれるなんて...ちょっと嫌な予感がした。
予感は的中。乳がんの告知を受けた時のこと
そして予約した日の朝、少し緊張しながらクリニックを訪れた。待合室で名前が呼ばれ、診察室のドアをノックして開けると、女性のI先生が迎えてくれた。イスに座ると、先生がおもむろに、「検査の結果、左側の乳房には腫瘍があり『悪性』だと思われます。」と告げられた。「悪性ということは、ガンということですか?」と聞くと、「そういうことになります。」とのこと。
人生で初めて、がんの告知を受けた瞬間だ。
先生が考える時間をくれたのだろう、少し沈黙の時間があった。「・・・。」少し間をおいて先生が「がんと言われると色々考えてしまうと思うけど、どんなふうに感じますか。」と聞かれた。その時、正直言って私は、動揺とかショックとかそんな感じはなく、意外と冷静に先生の言われることを粛々と受け止めていた。たぶん、あまりにわからな過ぎて、何をどうしたらいいか、これからどうなっていくのか、さっぱり見当がつかなかったからだろう。わからな過ぎて質問も思い浮かばなかった。「がんと言われても実感できず、ピンと来ません。」というのが精いっぱいだった。
先生は、「クリニックでできる検査はどうしても限られているから、これ以上のことはわからない。よかったら大学病院を紹介しますので、そちらでもっと詳しい検査を受けてさらによく調べましょう。」と言ってくださったので、言われるがまま、その先生も勤務されているSB大学病院に紹介状を書いてもらった。後日、そちらのSB大学病院で手術、治療をすることになるのだが、これが私の偶然でラッキーな道筋の始まりだった。
それは40代が終わって、50才の誕生日を迎えたばかりの晩秋のことだった...つづく
予兆編 乳がん初期で発見、からの顛末記
現在
50才の誕生日を迎えると同時に乳がんが見つかってから丸3年、現在、治療継続中。おかげさまで比較的、初期だったこともあり、深刻な状況にならずに済んでいる。色々な偶然やラッキーが重なったのだが、私の体験をお伝えすることで、少しでもどなたかの参考になればと思い、これまでの経緯を書いてみることにした。
予兆
今年も恒例の健康診断に行ってきた。勤めている会社が費用負担してくれて、なぜか、私は毎年、年度末の3月に受診することにしている。終わってから、医師から当日わかる範囲での仮の検査結果をもとに説明を受ける。毎回のことだが、ちょっと緊張して、大事がなかったことにホッとする。それは、何事もないことが大前提ではあるけれど、例えば海外旅行に行った時に、空港の入国審査でパスポートを見せてジロッと見られてチェックされる時の感じに似ている。悪いことはしてないのだけどドキドキする、あの感じ。とにかく、具合が悪くないのだから、とりあえず通過儀礼としての健康診断だった、あの時までは。
それは、4年前の3月の健康診断だった。健診の基本的な項目については費用は会社負担なのだが、婦人科などのオプションは、自己負担になる。それでも40歳を過ぎた頃から意識するようになり、子宮がんや乳がんなど婦人科系の検査は、受けるようにしていた。毎年、乳がんの標準的な検査として「超音波」と「マンモグラフィ」を一年おきに受けていて、その年は「マンモグラフィ」を受けた。結果はすぐにはわからず、後日、郵送で送られてくることになっていた。当日わかる他の検査結果の内容は、特に異常なしというものだったので、ホッと一安心して帰ったのだった。
それから2週間ほどして忘れた頃に、正式な検査結果が郵送されてきた。何気なく封を開けて見たところ、乳腺の検査結果に「要精密検査」と書かれていた。それまで見たことのない言葉だったので、一瞬、どういうことか理解できなかった。よく読むと、そこに「右の乳房に腫瘍の疑いがあり」と書かれている。「要精密検査」「腫瘍」などとても怖い響きなので動揺してしまった。どうしよう...ここは冷静にならなくてはいけないと自分に言い聞かせる。よく考えてみると、今、自分が病気なのかどうか、悪性か良性かもわからない、腫瘍=がんとは限らない。(だから、要精密検査と言われているのだが。) わからないという状況が、不安をさらに増幅させてしまって精神的にもよくない、ということで、近くの乳せん専門のクリニックに予約したのだった。
クリニックで診てもらったら問題ないということで一安心
クリニックでは「超音波検査」をした。さらに「要精密検査」と言われた右の乳房には、先生が「細胞診」をしましょう、ということで、乳房に直接、針を刺して細胞を採取して組織を調べることとなった。乳房に針を刺すなんて、ちょっと怖いが、麻酔もせず、腕に注射するのと同じように診察の延長で行う。細い針だからなのか、ほとんど痛みはなかった。「超音波検査は特に問題ありませんね。右の乳房の細胞診の方は後日、結果を聞きに来てください。」とのことだった。
気になっていた反対側の乳房のこと
後日、結果を聞くため、2週間後に、再びクリニックを訪れた。すると、先生から「右の乳房の腫瘍は調べたところ良性です。悪性化することはないから、このまま経過観察ということで様子を見ましょう。半年後にまた来てください。」と言われた。やれやれ一安心だったのだが、その時に、ひとつだけ頭の隅でずっと引っかかっていたことを先生に伝えた。
「右の乳房に腫瘍があるとのことですが、実は私が気になっているのは左側です。左側の乳房の上に違和感があり、触るとブヨブヨと膨らんでいて、時々痛みがあります。」すると先生は、「乳がんは痛みはありません。乳腺症など他の女性特有の症状ということはあり得ますがそれは深刻ではないので、このまま様子を見るということでよいでしょう。」とのことだった。
実は、この会話が、後にとても重要だったということがわかるのだった。
そして、半年が経過した。特に体調に変わりはなかったが、念のためにと先生に言われた通り経過観察のつもりでクリニックに行ったところ、思わぬ展開になるのだった...…つづく
ブログを立ち上げたばかりだというのに投稿がストップ。そして再開
ブログを始めたばかりなのに投稿がストップした
最後の投稿は昨年11月半ば。それからクリスマスもお正月も過ぎて、冬も終わろうとしている。いちばん大きな理由は、ブログに注ぐエネルギーを、他の事に費やさなくてはならなくなったから。
ブログは始めたばかりで試行錯誤しながらで、まだ、一つ記事を書くにも、ちょっと設定を更新するのにも時間がかかるし、このブログの性質上、自分の気持ちや感情を言語化して文章にする作業を伴うが慣れておらず、それなりのエネルギーを必要とする。
もともと自分の内面を人に話したり、発信するのが不得意で、ブログを書くことでもう少しできるようになったらよいなと思ったのが始めるきっかけなので、最初からサラサラ書けるわけでもないと思っていたが、まさか2ヵ月もストップしてしまうとは思わなかった。
転校生だった子ども時代
どちらかというと、自分がどう感じているのか、本当はどうしたいのか、など自分の内面を把握するのが昔から苦手で、どうも後回しにしてしまうなあと薄々気づいていた。
この性質がどこからきているのかなと思うと、たぶん、幼少期からの育った環境によるところが影響しているのではないかと思う。
私は、父の仕事の都合で転勤が多く、幼稚園、小学校、中学校、全て途中で転校している。幼稚園は年長の2学期、小学校は5年生、中学校は2年生で転校した。そうすると私の場合、どうなるかというと、転校前の幼稚園や学校の記憶がほとんど消えてしまう。友達や先生の名前などは、ほぼ思い出せない。それはたぶん、転校して新しい環境に馴染むのに、子どもながらに必死で、いっぱいいっぱいだったからではないかと思う。当時、転校先で受け入れてもらえるかどうか、友達を作れるかは死活問題だったのだろう。(もちろん、転校生が全員そうではない。友人で、転校した先々でボーイフレンドを作って大人になっても繋がっているという強者もいるので、私の場合はということ。)
そして、いつしか、その場の皆が楽しいということが自分にとって一番大事なことで、それが自分にとっても楽しいことになっていた。性格は決して大人しくて内気というわけではなく、それなりに明るくて社交的な方だと周りからも思われていると思う。ただ、いわゆる空気を読んで行動する性が染み付いていて、無意識に自然にできてしまう。それがよい方に働けばよいが、自分の感情や意思に向き合わないまま、後回しにしがちで、そのツケが回ってきて後で苦しむことになる場合があるなと、ずいぶん年を取ってから気づくようになった。
さあ、ブログ再開!
高校時代からの友人であるSMさんは、「自分の存在を抑えて、周りの人を優先するというのは卒業して、これからは自分らしさを出して、それでも受け入れられる強いクラウディアになった方がいいよ。」と言ってくれた。私のことを思って、こんなふうに言ってくれるなんて、本当にありがたいと涙が出る思いだ。
最初に、ブログ投稿がストップしたのは、ブログに注ぐエネルギーを他の事に費やさなくてはならなくなったからと書いたが、「他の事」というのは、まさに私の苦手とする「自分の内面に向き合い、自分がどうしたいのかを掘り起こして、言語化し文章にして相手に伝える」という全くブログとかぶる作業だった。それは、私にとって非常に苦しい作業で、とてもじゃないけど、それと並行してブログを書くことはできなかったのだ。具体的な出来事については、またの機会にお話したい。
気合いを入れ直し、さあ、ブログ再開!これを機に、ですます調はやめて、だである調で書きたくなったので、しばらくそうしてみることにした。その方がすっきりして、私らしいように思う。(そのうち、また気分が変わるかもしれないが)
こんな気分になるのも、もうすぐ春だからかしらん♬
神様のネコ
そのネコは、いつの間にかあらわれた
我が家の最寄り駅である東急多摩川線の下丸子駅、とても小さなその駅の前に、小さな小さな公園があります
遊具といわれるものはほとんどなくて、ブランコと鉄棒くらい
真ん中に小さい祠(ほこら)と小さい鳥居、そして、大きな銀杏の木が2本
一年に何回か盆踊りやお祭りでにぎわいますが、それ以外はとても静か
神社ではないけれど、街の鎮守の役割も果たしているのかな
その脇にベンチがあって、数年前ぐらいからか、いつしかそのネコが住みつくようになりました
昼間、子どもが多い時には、どこかにお出かけしていて、見かけないけど、
夜になると現れて、ほぼ毎日、こんなふうにベンチに佇んでいます
誰かに飼われてるのではないらしい
だけど、公園の前のスナックにちゃっかり寝床も作ってもらっています
人が近づいても、逃げないし、なんなら、触らせてくれます
街の人を癒してくれる、神様が遣わしてくれたネコ!?
時々、仕事帰りと思われる女性や白髪交じりのスーツ姿の男性、学生服の若者など色々な人が、そのベンチに座っているのを見かけます
そして、よく見たら、膝の上に、そのネコがうずくまっているじゃないですか
ネコを膝に乗せたまま、スマホをしている人、頭を撫でて話かけている人など様々ですが、ネコはじっとおとなしくしています
特定の誰かではなく通りすがりの人たちに可愛がられている
その光景を見ると、人間の方が、ネコに癒されているんだなと思います
きっとそのネコは、街の人たちを癒すために、神様がもたらしたに違いないと思うのです
だから、わたしは勝手に密かに、そのネコのことを「神様のネコ」と呼んでいます
そういうわたしも、日々、癒されています^^
とうとう、両親にオレオレ詐欺の魔の手が迫ってきた!
ある日、一本の電話が実家にかかってきた
つい先日、とうとうわたしの両親にもオレオレ詐欺の魔の手が迫ってきました!
母は77才、父は83才、とある地方都市で二人暮らし。
ある日、家にかかってきた電話に何げなく、母親が出たところ、
「ボクだけど。。。」と
その時に母は、息子(わたしの弟)だと思ったそう。
後になって考えたら、ナンバーディスプレイの表示は非通知だし、声もちょっと変だなと思ったらしいけど、それなのに、言い回しとか話し方がソックリだったのでと、息子だと信じ込み、そこからは当然のような親子の会話になっていきます。
相手「明日、仕事で近くまで行くから、家に寄りたいと思う」
母 「そうなの。それであんたは今どこ、東京?青森?」
(←こっちから情報漏らしてるじゃん(# ゚Д゚))
相手「東京」
「家に行けるのが何時になるかまだわからないから、また電話する」
これが一回目の電話。それから数回にわたって電話がかかってくることに。
巧妙な手口
その日のうちに二回目の電話。
相手「隣の〇〇市に着いたけど、仕事で、何時に終わるかわからない。また電話するね」
母 「そうなのね。家には泊まるの?」
相手「うん。泊まる」
ということで母と父は息子が久々に帰ってくるから美味しいものを食べさせたいと親心から、あれこれ買い出しして支度して待っていました。
しばらくして三回目の電話
相手「まだ仕事が終わらず、帰れない」
「ところで、これはお母さんとボクの二人だけの話にしてほしいんだけど。。。」
と前置きして、
「実は友達3人と株に投資をした。。。それで今度、税務監査が入ることになり、
一時的に口座にお金が必要で、貸してほしいんだけど。。。云々」
(←いよいよ本題を切り出した(゚д゚)!!)
母 「いくらぐらい?」
相手「500万円ほど」
母 「それはなんとか用意できなくはないけど、銀行に行っておろしてこなくちゃいけない。わたしの一存では決められないから、お父さんには話すからね」
相手「わかった。仕事が終わったら、また、電話する」
この時点で、まだ、母は疑っていないのです。
(これって典型的なオレオレ詐欺の手口じゃん!って思うんだけどね)
銀行もオレオレ詐欺を警戒しながら、意外と甘いところも
そして母は父に話をして、父も心配して、お金を用意するべく銀行に行きました。母が銀行の窓口に行き、満期の定期預金をおろそうとしたら、このご時世で銀行もオレオレ詐欺を警戒して、すんなりはおろさせてくれず、いろいろ質問されたそう。
ついには支店長さんまで出てきて
支店長「100万円までしかおろせないことになっている」
母 「息子が帰ってきて直接、渡すことになっているから心配ない」
支店長「そういうことなら大丈夫そうなので許可しましょう」
ということで、満額おろすことができてしまったのでした。
(あー、ここでおろすことができなければよかったのに。。。)
こうして母は現金の束を持って帰り、父と一緒に息子の連絡を待っていました。家に大金があるので緊張して、何度も戸締りを確認したそうです。
そして父母の間で
「(息子)本人の顔を見て、直接でなければ、お金は誰にもわたさないでおこうね」
と決めていたそうです。
待てど暮らせど、二度と電話はかかってこなかった
ところが、それから待てど暮らせど、電話はかかってこず、一晩、眠れない夜を過ごし。。。この間に、本物の息子の携帯に電話を入れているが繋がらず、息子が悪い輩に捕まっているのじゃないかと案じたり。
翌朝になってようやく、息子本人から折り返し電話がかかってきて、
「電話くれたようだけど、どうしたの?」と事の顛末を話したところ、
「それはオレオレ詐欺だよ」と。
そこで初めて、騙されたのか!と気づいたとのことでした。
ぎりぎりセーフ!うちは大丈夫と思っていたけれど、そうではなかった
それから二度と電話はかかってきませんでした。たぶん、母と二人だけの話にしてほしいと言ったのに、母が、お父さんにはぜったいに話さなくてはならない、と言ったことで相手が警戒したのかもしれません。
それにしても、銀行から大金を持って帰ったり、本当にぎりぎりのところで食い止めることができました。日頃からオレオレ詐欺には気をつけるようにと事あるごとに言っていたので大丈夫だと思っていたのですが、やっぱり子どもを思う親心というのはすごくて、なんとか助けてあげたいという気持ちが何にも勝るのでしょう。詐欺師たちもそれをよくわかっていて、そこにつけ入るのだと今回あらためてよくわかりました。
今後のオレオレ詐欺対策として
今さらですが、今回のことを教訓にして、いくつか対策を考えてみました。
▽お金の話が出たら、たとえ子どもからの電話だと思っても、いったん電話を切って、折り返し本人の携帯か家電に電話する。
▽折り返し電話して本人と連絡が取れるまでは、急かされてもお金をおろしたり行動し
ない
▽親子で合言葉を決めておく
幸いうちには被害がなかったのですが、注意喚起の意味を込めて、載せておきます。
52歳、初心者の私がブログはじめました
更年期の真っ最中、心と体の変化にうろたえる毎日
はじめまして
クラウディアと申します
現在52才、おひとり様の生活を長く満喫しています
少し自己紹介させていただきます
若い頃からフルタイムで働き、出張もバリバリこなす仕事優先の生活を送っていました
40代後半になり、ご多分にもれず、老眼が襲ってきて名刺の文字が見えない
そして、今までに感じたことのない、体や心に次々起きる変化にうろたえる毎日
これがウワサに聞いていた更年期か、誰でも通る道なはずだけどけっこうツライ
そして50才の誕生日を迎えると同時に、ふとした大きな病を経験しました
おかげさまで今は元気なのですが、その時に生まれて初めて「死」というものを自覚しました(←このブログでおいおい触れていきますね)
それまでは漠然と、日本人の平均寿命の80代後半までは生きるでしょ、と思い込んでいました
でも、そうとは限らないんだ、もしかしたら10年後には居ないのかもしれない。。。
それから今までを振り返って、生活を見つめ直すようになりました
ツラかったことや失敗が誰かの役に立つ!?
わたしは自他ともに認める、ごく普通の人間だと思っています
SNSもやってはいますが、そんなに発信する事もなく、他の人の投稿を眺めるばかり
それが先日、友人に「歯の治療がうまくいかなくて、激痛に耐えられず、人生で初めて救急車を呼んだ」という話をしたところ
「大変だったね。でも歯で救急車呼ぶなんて、初めて聞いた」
と大笑いしてくれたのです(←詳しくはまたの機会に)
そうしたらツラかった出来事なのに、なんだか楽しくなってきた。。。
生きていれば誰でも、ツラい目に遭ったり、うまくいかないこともあると思います
「人生ネタ探し」なんて誰かが言っていましたが、誰かと共有すると失敗談も人を笑わせるネタになるのかな
だったら最近のわたしはネタがいっぱい!
とワクワクしてきました♬
それで日々の出来事や感じたことを発信してみようと思い、
ブログを開設することにしました
もちろん、失敗談だけでなく、好きなことや嬉しかったこと、悩みなど、その時々で気ままに載せていきたいと思っています
どなたか一人でも共感してくださったり、笑ってもらえたらうれしいです
老後の生活不安とか親の介護とか、心配はたくさんありますが、
ツラいことも笑いに変えながら、明るく進んでいけたらよいなと思っています
ブログ初心者で至らないことも多々あるかと思いますが、これからどうぞよろしくお願いします